自社開発企業と月35万円で契約した話
最初の案件
当時、バンドでメジャーデビューするという夢を諦めきれず、理系大学を卒業した後 新卒で某電機メーカーに就職したのですが、丸3年働いて退職し 転職することもせず、なんとなく生きる道を探しながら約半年間を過ごしていました。
その年も終わろうとしていた頃、当時少し噂になっていた「フリープログラマー」という肩書きに興味が湧き(プログラムは少しは書けていたので)確かフロムエーかなにかで見つけた 小さな会社の仕事で、1本25万円という単価で宅配飲食店向けオーダーエントリーソフトウェアの仕事を受けられることになりました。それが僕のフリーランスとしての最初の仕事でした。
ライバル企業に問い合わせ
その最初の案件で伝票を印刷する機能を作らなければいけなかったのですが、その作り方がよくわからず、、どうしたかというと…以前から気になっていた某雑誌で見かけるライバル企業(某 自社開発企業)になんとなく電話で作り方を問い合わせてみたのです(僕は時々そういうことをしてしまう人間です汗) 。
たまたま電話に出て頂いたのが、当時の開発担当(後に社長になった方)だったのですが その方と少しお話をした後で「キミ、ライバル会社に問い合わせてくるなんて…面白い人だね。今の会社の1.5倍出してあげるからウチの会社においでよ。」とその時 電話でお誘い頂いたことが事の始まりでした。
僕はその時受けていた仕事を1~2ヶ月で終わらせ(正確にはあまりきちんと作ることができなかったのですが、色々あって一旦終了させて頂いたのです)「1.5倍出してあげる」の言葉につられ…ホイホイその会社を訪ねてみることにしたのです。。
フラれる…
ところが…当時まだ「3年間上場企業でエンジニアをしていた」と言う根拠のない(若者特有の)自信もあり、また「1.5倍」と言う誘い文句を 勘違いして受け取ってしまったワタクシは、ハードロック好きも手伝って?か、かなり上から目線で開発担当とお話ししてしまったのです。。
もちろん、そんな横柄な自分を受け入れてくれるはずもなく、誘われた割にはあっさりとフラれてしまい、僕は仕事を失ったのでした。
1日12時間…プログラムを作り続ける
で、どうしたかというと…「雇ってくれる人がいないのなら、自分で作って売ればいい!」なんて大それたことを思ってしまい、数日後に実家に帰省し こもりきりになって朝起きてから夜寝るまで、おそらく毎日12時間以上プログラムを作り続けるような生活をはじめたのです。もちろん、当初の計画ではすぐにその結果は出るだろう…と思っていたのですが、最終的にはその生活は約5ヶ月続き(途中半日だけ休みを取りましたが)、、その間 1本のプログラムを作り終わると その販売用のチラシを作り、近所の店舗にそれを配って反応を待ち…反応がなければ、また別のソフトウェアを作り…と それを繰り返していたのですが、、結局5ヶ月かかって1本も売れず(=1円も稼げず)母親に実家を追い出されて東京に戻ってくることになったのです。
再訪
自分の実力を勘違いしていた僕の天狗より高かった鼻は、26歳半ばでポッキリと折られ…改めて5ヶ月前にフラれた自社開発企業に、今度はスーツにネクタイを締めて180度態度も姿勢も改め、開発したソフトウェア数本をノートパソコンに入れて再度 訪問したのでした。
開発担当の方は面談に快く応じてくれ、約5ヶ月間で作ったそれらのソフトウェアを1つずつ見ていってくれました。「こんなの作れるようになったんだね。」と言われてとても嬉しくなりましたが、バンド活動もあり、なんとか自宅に持って帰れる仕事を…と思っていたので「在宅でできる仕事はないですか、、単価はいくらでも構いませんので、、」と平身低頭お願いしてみたところ、「わかった、じゃあ仕事出してあげるよ。月35万円でいい?」と言われ、その日から僕は「頂いた仕事に全力で取り組もう、、」と覚悟を決め、その後 約6年間その会社のお世話になるのでした。
「自社開発企業と契約した」と言えば聞こえは良いのですが、実際には、なんとか持ち帰りの仕事を頂けるようになった、そして仕事を頂けることの感謝の気持ちを持てるようになった…そんな人生を変える一つの大きな出来事になったのです。
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[…] 1993年4月 東証一部情報企業に入社1996年3月 東証一部上場企業を退社1996年6月 個人事業主 エムエスデザイン として開業1997年10月 フリーランスプログラマーとして某 自社開発企業と契約→ 自社開発企業と月35万円で契約した話起業家としてのプロフィールはこちら […]